オーストラリアの建国史を語ろうとすると、多くの場合、1770年のジェームズ・クック、1788年のファースト・フリート、そして1901年の連邦成立から話が始まります。
しかし、その始まり方だけでは、この国の輪郭を見誤ります。
なぜなら、現在のオーストラリア大陸には、ヨーロッパ人が来るはるか以前から、アボリジナルおよびトレス海峡諸島民の人びとが暮らしていたからです。オーストラリア国立博物館は、アボリジナルの人びとが少なくとも6万5,000年前からオーストラリア本土に居住していたと説明しています。(オーストラリア国立博物館)
このシリーズでは、オーストラリアを「突然できた英国系国家」としてではなく、「古い大地の上に、近代国家が後から重なっていった国」として見ていきます。
オーストラリアの建国は、ひとつの日付では語れない
オーストラリアが国家として成立した日は、制度上は1901年1月1日です。
この日、ニューサウスウェールズ、ビクトリア、クイーンズランド、南オーストラリア、西オーストラリア、タスマニアの6つの英国植民地が連邦を組み、Commonwealth of Australia、つまりオーストラリア連邦が誕生しました。(オーストラリア議会教育公社)
ただし、これを「オーストラリアの始まり」と言い切ると、重要な前提が抜け落ちます。
1901年の連邦成立は、あくまで英国植民地同士がひとつの政治体にまとまった出来事です。
その前には、1788年からの英国による植民地化がありました。
さらにその前には、先住民の長い歴史がありました。
つまり、オーストラリア建国史には少なくとも三つの時間軸があります。
一つ目は、先住民の時間。
二つ目は、英国植民地の時間。
三つ目は、近代国家としての連邦の時間です。
この三つを重ねて見ないと、オーストラリアという国は見えてきません。
1770年、クックは「無人の土地」に来たわけではない
1770年、ジェームズ・クックはエンデバー号でオーストラリア東海岸を航海しました。
同年8月22日、現在のポゼッション島付近で、クックは英国王ジョージ3世の名において東海岸の領有を宣言しました。オーストラリア国立博物館は、クックが周囲に人びとの存在を示す煙を見ていたにもかかわらず、東海岸の領有を主張したと説明しています。(オーストラリア国立博物館)
ここが、オーストラリア史の大きなねじれです。
ヨーロッパ側の記録では「発見」や「領有」として語られます。
しかし、そこにはすでに人びとが住み、土地と結びついた文化、言語、生活、法のような秩序がありました。
この視点を持たないまま建国史を読むと、オーストラリアは空白の大地に英国が制度を持ち込んだ国に見えてしまいます。
けれど実際には、空白ではありませんでした。
1788年、シドニー・コーブから英国植民地が始まった
1788年1月、アーサー・フィリップ率いるファースト・フリートがニューサウスウェールズに到着しました。
オーストラリア国立博物館によると、11隻の船で構成されたファースト・フリートは、1788年1月26日にシドニー・コーブ、現在のサーキュラー・キー付近に流刑植民地を設けました。これが、オーストラリアにおける英国の流刑植民地の始まりです。(デジタル教室)
この日付は、現在のAustralia Dayにもつながります。
ただし、1月26日は祝日である一方、先住民にとっては植民地化、土地の喪失、生活の破壊を想起させる日でもあります。
ひとつの国民的記念日が、別の人びとにとっては痛みの記憶になる。
この二重性は、オーストラリア建国史を考えるうえで避けられません。
「terra nullius」という神話
英国による植民地化の背景には、後にterra nulliusと呼ばれる考え方がありました。
terra nulliusとは、ラテン語で「誰のものでもない土地」という意味です。
1992年のMabo判決は、この考え方を大きく覆しました。AIATSISは、Mabo判決について、植民地化時点のオーストラリアがterra nullius、つまり誰のものでもない土地だったという神話を否定した重要な判決だと説明しています。(AIATSIS)
この判決は、オーストラリアの土地法の土台に影響を与えました。
つまり、建国史は過去の話では終わりません。
1770年や1788年の出来事は、1992年の判決にまでつながり、さらに現在のオーストラリア社会にも続いています。
1901年、オーストラリアは連邦国家になった
1901年1月1日、6つの英国植民地がひとつになり、オーストラリア連邦が成立しました。
オーストラリア国立公文書館は、憲法が連邦成立の基礎文書のひとつであり、英国議会で可決され、1900年7月に女王の裁可を受けた後、1901年1月1日に6植民地がCommonwealth of Australiaとなったと説明しています。(NAA)
ここで重要なのは、オーストラリアの独立がアメリカのような独立戦争によって成立したわけではないことです。
オーストラリアは、英国帝国の枠内で、植民地同士が連邦化する形で国家になりました。
だから、オーストラリア建国史は「革命」よりも「統合」の物語として見えます。
一方で、その統合の外側に置かれた人びと、特に先住民の存在を見落としてはなりません。
建国の光と影を同時に見る
オーストラリアの建国史には、近代国家としての制度づくり、民主主義、連邦制、移民国家としての発展があります。
しかし同時に、植民地化、土地の収奪、先住民の排除、白豪主義のような政策もありました。
たとえば、1901年に成立した移民制限法は、いわゆる白豪主義政策として知られ、1958年まで移民に影響を与えたとオーストラリア国立公文書館は説明しています。(NAA)
つまり、1901年は「国がまとまった年」であると同時に、「誰を国民として迎え入れ、誰を外に置くのか」が制度化された年でもありました。
建国とは、美しい国旗や式典だけでできているわけではありません。
そこには、制度の設計があり、境界線の設定があり、排除された人びとの歴史もあります。
まとめ
オーストラリアの建国史は、1901年1月1日だけでは語れません。
少なくとも6万5,000年におよぶ先住民の歴史があり、1770年のクックによる領有宣言があり、1788年の英国流刑植民地の開始があり、1901年の連邦成立があります。
この国は、古い大地の上に、英国植民地が重なり、その後に近代国家として形を整えていきました。
だからこそ、オーストラリア建国史を読むときは、ひとつの始まりを探すよりも、複数の始まりが重なっていることを見たほうがよいのだと思います。
第1回では、オーストラリア建国史の全体像を置きました。
次回は、ヨーロッパ人が来る前のオーストラリア、つまり先住民の社会、土地との関係、言語、文化について、さらに深く見ていきます。
つづく
参考
National Museum of Australia “Evidence of first peoples”
https://www.nma.gov.au/defining-moments/resources/evidence-of-first-peoples
National Museum of Australia “The First Fleet arrives at Sydney Cove”
https://digital-classroom.nma.gov.au/defining-moments/first-fleet-arrives-sydney-cove
National Museum of Australia “Bedanug, Thunadha, Bedhan Lag, Tuidin”
https://www.nma.gov.au/exhibitions/endeavour-voyage/bedanug-thunadha-bedhan-lag-tuidin-possession-island
Parliamentary Education Office “The Federation of Australia”
https://peo.gov.au/understand-our-parliament/history-of-parliament/federation/the-federation-of-australia
National Archives of Australia “The Federation of Australia”
https://www.naa.gov.au/students-and-teachers/student-research-portal/learning-resource-themes/government-and-democracy/federation/federation-australia
AIATSIS “The Mabo Case”
https://aiatsis.gov.au/explore/mabo-case
National Archives of Australia “The Immigration Restriction Act 1901”
https://www.naa.gov.au/explore-collection/immigration-and-citizenship/immigration-restriction-act-1901